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怪我の功名

休日、バスケの試合の昼休憩中。
「フォトジェニックな1枚を・・・」とパチリ。

しかし、このあとの最終戦で、膝をグキリッ!
あらぬ方向に曲がったし・・・。

あー、やってしまった・・・。
ちょうど、去年のこの時期、指を骨折したんだなー。

で、パターンは、まったく同じ。
「チャーーーンス」と思って、
味方からの凄いスピードのパスを取りに行こうとした。

きっと、仕事でも、同じ。
色気を出して、無理にとろうとすると、こんな目に合うんだろうな。暗示してくれている。
敵は、外にいるんじゃない。
自分の中にあるんだ。。。2年連続で、怪我をしないとわからないダメ人間。

 
そして、もうひとつ。
(実は、これを書いて、残しておきたかった)

整形外科に行って、診てもらったとき、
先生が
「実業団でやってるの?」
だってーーー!!

ふふーーーん、そう思っちゃったのですか、先生!!

怪我をしているのに、かなりご機嫌なのです。

 
リップサービスだったりして?
もしかして、マニュアル化されてたりして・・・。

「客層別・相手を喜ばせる、わざと間違う質問」
葬儀の営業でも、なんか特集できそうですねー。



商品名について


秋田本社のクライアントさんから、帰り際にいただいたこの食品。。
「とうふかすてら」

「独特の味と食感ですよ~、どうぞどうぞ!」と、紹介されて、ワクワク・ドキドキ。

でも、見れば見るほど、
ツッコミたくなる気持ちが、抑えきれない・・・。

これ、豆腐っぽいよね。
カステラみたいな味のする豆腐だよな。。。

だったら、
これ「かすてらとうふ」だろ。

メガネザルは、サルであって、メガネじゃない。
おばはんパーマも、パーマの種類を言うのであって、あくまで「おばはん」じゃない。
バーコードハゲは、バーコードじゃない、ハゲだ。ハゲの形状だ。

・・・
食べたら、やっぱり、どう考えても、豆腐でした(笑)

 
いや、待てよ。
「目玉オヤジ」・・・
あれは、目玉のようなオヤジであり、オヤジのような目玉でもある。
そうゆう意味では、フィフティ・フィフティだ。

ということは、
「どちらとも見分けがつかないくらい」という意味が含まれたネーミング?

秋田名物、深い・・・。



絵の具の色を元の色に戻す


休日の各駅停車の新幹線の車内。
していない、貸し切り状態。

詳細は書けませんが、
最近、
「あのときのアドバイスを聞いてくれないから、やっぱりそうなる!」
「だから、言わんこっちゃない・・・」
ってことが、ご支援先でいくつか起きている・・・。

本日は、その後始末に急行。。。

そうなってからの立て直しは大変だーー。
ほんと、頼みますぜ~。

混ぜてしまった絵の具の色は、元に戻せない・・・。

それでも、まあなんとかしますけど。
遠回りしてしまっている感は、否めない。。



調子が落ちてきているとき、 歯止めをきかせる術

調子が悪いとき、どうやって元に戻すか?

自分でわかっている人と、
わかっていない人、
言い換えれば、それに対して「無知」「無関心」流されるままになっている人では、
立ち直り方が違う。
周りにも多大な迷惑をかけ、ジタバタ、ダラダラと立ち直る人と、
自分で、スクッと起き上がり、パンパンと埃を払って、歩いてゆく人。

これは、個人の場合も
商売の場合でも、同様です。

葬儀社の場合、説明のつかない不調に陥ることがあります。
施行の入らない日が、何日間も連続することです。
普通では考えられないほどに。

たとえば、2日に1件ペース、
月に15件平均で稼働しているホールなのに、
半月以上も、受注0が続く。。。ということが、起こる。
葬儀社「あるある」です。

「施行ゼロ行進」の日数を、
少しでも減らす対策は、3つ存在する。

これは・・・かなりのノウハウなので、
ここで公開するのは、やめときます。いじわるですが、ご容赦を!



敵を知り・・・


事務所を引っ越すときに、整理した書棚の
「葬祭系・出版物」です。

「葬儀」を考えている一般のお客様は、
こんな書籍を目にしているかもしれない・・・と、読んでいます。
こんな風に、葬祭業界を見ている可能性もあるんだなー、と。

敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。

敵は、ライバル店だけでは、なく、
お客様との競争でもあるのです。



男旅・ラスト ~薩摩藩の教育


もうひとつの旅の目的は、
西郷・大久保らの「維新の英傑を輩出」した理由を探すこと。
そのひとつが、
薩摩の武士階級の教育方法「郷中教育(ごじゅうきょういく)」。

幕末の薩摩藩の中には、約30の「郷中」と呼ばれる「町内会組織」があり、
若者の教育は、そこで行われた。
教師はいない。同じ町内に住む年長者から年少者までが集まり、
先輩が後輩を教え、後輩が先輩を敬い育つという、自治的な教育制度で、
郷中内では、家格の違いはなく、平等に扱われた。
午前中は、歴史書を教科書に読み書き、午後は体を鍛える鍛錬。剣術、馬術や討論もしたそうです。
基本方針は、義を実践すること。嘘は言わない。負けるな。弱いものいじめをするな。心身を鍛錬せよ。質実剛健たれ。

そのなかでも「加治屋町」という数百メートル四方の町(郷中)から、
西郷隆盛・従道の兄弟
大久保利通
東郷平八郎
大山巌、山本権兵衛
樺山資紀、村田新八、篠原国幹、吉井友美・・・といった英傑が巣立っている。

司馬遼太郎は、このことを
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と評している

 
企業にも、なんとなく「郷中教育」みたいなものがある。
仕事上の役割としての関わり方、プラス
先輩と後輩の関わりが、多かれ少なかれ、存在している

そして「加治屋町」のように「優秀な人材を輩出する部署」も存在している。
ある店舗、ある部署からは、
次の店長、次のリーダーが、どんどん出現してゆく。

「加治屋町」のような「人材輩出」部署には、こんな特徴がある。
・平均以上の成績を上げている「ハイ・パフォーマンス・チーム」である。
・自由な空気がある。
・年長者、次の年長者が、仕事&会社好きである。
・非公式の時間でも、関わる時間が長い。

こんな部署風土からは、人財がたくさん輩出される。

「加治屋町」郷中も、そうゆう雰囲気だったのかな?
西郷や、大久保の郷中の先輩って、どんな人だったのだろう?
郷中教育は、誰が考えて、どうやって始まったのだろう?
現在のスタッフ育成に導入できることは、ないのかな?

男旅は、また来年。
でも「温故知新」の旅は、終わらない。



男旅・参 ~末期症状からの作戦 

「コンサルティングして、伸びる企業は、どんな会社ですか?」
こんな鋭い質問を受けることがある。

「素直に、前向きに、100%、提案を実行してもらえること」
「軍資金=活性化の実行のためにかかるお金に、ある程度の余裕があること」
この2つを挙げる。

つまり、
言うことを聞いてくれて、実行してくれる。
会社の体力があるうちに、依頼してくれる。

この逆のケース
提案を聞いてくれない、その方向に協力してくれない、実行してくれない。
そのためのお金がない、余裕がない。
という会社は、非常に苦労する。
お金のほうは、売上を上げつつ、何とかできるけれども、
言うことを聞いてくれないのは、どうしようもない。

もしも自分が、
戦時中・敗戦濃厚の日本から「勝つ作戦を考えてくれ」という
依頼を受けたら、どんな作戦を立てただろう?
無いものづくしで、色んな制約があっただろう。
提案は聞いてくれただろうか?

果たして「特攻」以上の作戦を、考えつくことができただろうか?

「最悪になる前に、もっと、早く依頼してくれ!」
「なんでここまで、放っておいた?」
末期症状の会社からの依頼には、こう叫びたくなることもある。

だから、
戦時中の日本の、その立場で「特攻」という作戦を考えた人たちのことも、
完全には否定できない。。。とも感じる。

 
色々、考えさせられる・・・。

通りいっぺんだけれども、
やはり戦争をしないようにすることが一番だ。

そのためには、
責任の所在が明確なリーダーが、
常に勝てるように、冷静かつ客観的な判断をして、行動すること。

それしかない。

組織の意思決定に関わる自分は、
もっと、勉強&行動しなければならない。

平和を勝ちとる作戦。
無駄な血も、時間も、お金も、使わずに、勝つ方法はないのか?を追及する。

なんだか、結局、
普通の結論にしかならないけれども、
言葉だけでなく、本当に腹の底に落ちた結論である・・・という点では、
今までよりも成長できたのかなー。

西郷さんの最後の地・城山から桜島を望む。



男旅・弐 ~作戦立案者の責任

「誰かのために、体を張って、生きてきた」
若い先輩方に感謝と、
私も同じ国に生を受けた男として、
そうゆう人間でありたい、という気持ちを、新たにしました。

それと、同時に、大切な命が特攻によって失われたことについて、
「コンサルタント=参謀」という職業とリンクして、思いが去来する。

特攻という作戦は、無謀ではなかったのか?

色んな思索がぐるぐる駆け巡り、未だ、答えが出ていない。

まず、
私は、コンサルタントとしても、リーダーとしても、大切にしていることがある。
「自分に、できないこと」
「自分が、身銭を切ってやれないこと」は、他の人に提案しない。ということです。

その結果、
作戦内容を実行していただく会社やスタッフさんに、
意味のない、無駄なことをさせることはなくなるし、
時間・お金の負担、体力的・精神的負担も、最低限に抑えることができる。

「ポスティング、1日で〇〇枚・・やればいいんですよ」と、
特殊な成功ケースを聞きかじっただけで、軽々しく話すコンサルタントもいる。
しかし、住宅の密集度によって、配布できる枚数は様々なので、
地域別の基準を作らなきゃダメだ。
体力だって、人それぞれで、普通は2時間やれば、もうヘトヘト。
実際に、やったから、
どの地域ならどのくらい配布できるのか?
どんなツールが良いのか?配布NGのマンションをどうすれば配布できるのか?
スタッフの不正をどうやって防げばよいのか?も、わかる。

「福島の原発は問題ない」と言った政治家は、
自分自身か、少なくとも、家族か親戚が、福島に移住するのが筋だと、思っている。
何時間か避難所を訪問して、テレビに流すのはポーズに過ぎない。
何日間か、自分が避難所で生活してみないと対策は出てこないし、
心情もわからない、と思っている。

そうゆう意味では、
特攻を指示した幹部は、特攻すべきだと考えている。
任務上、不可能なら、少なくとも、自分の子供を特攻隊に入れるべきだと。

いつの時代も、どの国でも、
戦争は、年寄りが始め、若者が犠牲になる。

そこで・・・・
「特攻作戦を考えた人」とグーグルで検索してみる。
そうすると「特攻作戦の生みの親」と言われている二人の名前が出てくる。

大西 瀧治郎・海軍中将は、終戦後、割腹自殺。
宇垣纏・海軍中将は、玉音放送後、自ら部下とともに特攻。

大西中将の自殺は壮絶だった。
切腹しただけでは、人は死なない。
介錯により首を刎ねられなければ、絶命しない。
「自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝す」と遺文を残し、
介錯なしで、自ら腹と首を切った。
数時間後、絶命せずにいるところを、人が見つけて病院に連れて行くも、
介錯も、延命措置も、拒んで、翌日、死ぬ。
苦しみを自らに課して死んでいった。

宇垣中将の降伏後の特攻は、違反だと思う。
しかし、身勝手ながらも、彼なりの責任はとっている。

このような史実を知ると、
作戦を立案する者としての「矜持」は同じだったのか・・・と思う。
無責任に特攻させたわけではないことは、理解できた。

もちろん、
この二名が特攻を考えた代表のように書かれているが、
実際には、特攻作戦立案にかかわった人や、
それを推奨した人で、責任をとらない人も、たくさんいたはずだ。
「手柄は奪い、責任はなすりつける」大きな組織にありがちな特性。

現在の日本の政治家や、リーダーに、
覚悟を持って、仕事をしている人間が、どのくらいいるのだろうか?



男旅・壱 ~敵機は来ますか? 

夏の恒例行事となってきた「男旅」
鹿児島へ。。。

ごクライアント葬儀社の社長、幹部の皆さんには、
鹿児島出身の方もおられ、皆さん好漢(=快男子)揃いなのです。
さすが、現在の日本の礎を作った、薩摩藩。
薩摩隼人たち。
そんな憧れも手伝い、空路、南へ。

目的のひとつは、
「知覧特攻平和記念館」に行くこと。

太平洋戦争下、沖縄に進攻してきたアメリカ軍を食い止めるため、
爆弾を積んだ飛行機で、乗員もろとも、敵艦に体当たりをする・・・という
特殊任務の攻撃隊=特攻隊の出撃基地があった場所です。

館内には、
特攻隊員1000名の遺影写真と、
遺書が展示されています。

まず、
写真のお顔が、皆、凛として大人びていて、
文字と文体が、とても綺麗なことが、印象に残ります。

遺書は、文語体で書かれているものも多いため、
内容や意味を完全に汲み取ることが難しい部分もあります。

でも、
「明日、身体を粉々にして死ぬことの確定した男が、一番大切な人に残した文章だ、
意味を完全に把握できなくとも、とにかく1枚1枚、全てに目を通すこと!」
それが、今の平和な日本に生きさせてもらっている男に課された、
最低限の義務であり、礼儀だろう・・・。
そのあと、何を思うかは、それぞれの自由。と、各自、見学。

残される父母への感謝の言葉と、これからのことを気遣う言葉。
恋人や子供への最後のメッセージ。任務の全うを誓う言葉。。。
一見、何でもない普通の言葉にこそ
その底にある、大きな感情を、窺い知ることができます。

もしも自分が、同じ時代、同じ立場となったとしたら、、どんな遺書になるだろう?
あまりに決断と思いが大きすぎるがゆえ、
すでに心の整理ができていて、
逆に、特別な言葉や、感情を素直に、書くことはないだろうな。と感じる。
どうだろう?

 
抑えていた感情が一気に、あふれてしまった瞬間があります。

どなたのものなのか、
言葉も、正確には覚えていない。

遺書の主文を書いたあと、
父、母、恩師・・・それぞれに宛てた文があり、
その最後に、おそらくは親戚の子供たちに宛てたメッセージがあった。

「敵機は来ますか?」

長い文章の中の、この言葉を目にしたとき、涙が止まりませんでした。

自分が戦うことで、
愛する家族を戦火から守れるかもしれないならば・・・
そうゆう使命感で生きた人たちの本質と、優しい心。

特攻隊員の根底に共通しているものを、一気に感じ取り、
涙腺が。。

「敵機は来ますか?」のあとは、こんな風に続いていたと思います。
「敵機なんて、なんでもないですよ。
 これから、〇〇兄さんが、倒してきますからね。
よく勉強し、体を鍛えて、父母を助け、日本のために・・・」

まるで、自分に宛てて書かれているように感じます。

 
もちろん、特攻隊員だけではない。
各地で戦闘に参加した人も、しなかった兵員も。
国内で働いていた人も、女性も子供も・・・当時、みんな必死だっただろう。

記念館は、撮影禁止のため、知覧の武家屋敷をアップします。



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